普門院について

普門院の始まり

今から約400年前、松江藩の初代藩主である堀尾吉晴公が松江城を築城、城下町を造成したときに開創された寺院。

遊覧船が優雅に行き交う松江城の堀川沿いにある「普門院橋」を渡った先に普門院があります。




●慶長12年から16年(1607年から1611年)

堀尾吉晴公が松江城を築き、城下町を造成した当時開創された寺院。当初は松江城の祈願所として島根群市成村(現市内西川津)に松高山願応寺(普門院の前身)と豊国神社(祭神豊臣秀吉公)を建立し、香華の資として300石が与えられ賢清上人を別当職に任じたのが始まりです。

●寛永15年(1638年)

松平直政公が堀尾家三代、京極家一代の後を受けて松江藩松江城主となります。直政公は賢清上人を城内稲荷社の別当職に任じます。

●寛永15年(1638年)
普門院は寺町の大火により類焼しますが、元禄2年松平家三代綱近公は現在地の北田町が城の鬼門なるをもって坊舎を建立し、国家安泰、鎮護の道場とし、爾来法灯今日に及んでいます。


□稲荷社


□「新左衛門稲荷さん」のお話

寛永15年(1638)松平直政公が松江に入府された頃、当時寺町にあった普門院へ信州の住人、新左衛門という浪人がお参りし、その後、日課になりました。
 ある日、その浪人が家中で囲碁の名人と称された市原次郎左衛門と対局したところ、浪人が一目差で勝ちました。それから再々対局しても同じ結果となり、和尚は不思議なことだと感じていました。

寛永17年4月、三の丸御殿で直政公が就寝しておられると寝室の金屏風にもうろうと若侍の影が浮かび、直政公に近づいて、「私は信州松本の稲荷新左衛門ですが、主人が松江にいかれてから陰ながら身辺を護衛しています。今、普門院に宿っています。もし城内にお招きされますならば、城内はもとより、城下一圓の火難、災害を防ぎ守護いたします。」と訴えました。直政公は愕然として目覚めると、若侍はかき消えていました。

翌朝、普門院に連絡されましたが、和尚は、「どうも心当たりがありません。」といいました。
その夜、若侍は再び直政公に近づいて「明日、和尚にこれをお見せ下さい。」と白い碁石を一つ置いて消えていきました。直ちに和尚を招き白碁石を見せると、「やっとわかりました。では新左衛門殿は、神狐で、お稲荷さんのお使いでありましたか。」と驚きの声をあげました。
 直政公は早速普門院にお宮を建て、城内に祀られたといいます。普門院はやがて北田町の現在地に移されました。