★参考(昨年の今頃書いた文章) 2012年12月23日(日) 50歳の誕生日にあたって まだ煮詰まっていない「草案」段階でこなれていない雑文ですが、50代出発の日に発信します。ご意見をお聞かせください。 「生物学的保守主義」宣言(草案) 1、50代以上しか実感がない、「保守」「革新」という死語 50代以上の世代は、かつて「保守」(自民党)・「革新」(旧社会党・共産党)という言葉を使ってきた。その分岐点の枠組みがほぼ消滅した今になっても、この言葉の呪縛があり、積極的に使う人は少ない。かつて自民党を保守、旧社会党・共産党を革新と読んできた言葉の呪縛から離れて素朴にこの言葉を捉えてみると、「保守」こそが私の信条ではないかと思う。 「自然を守ること」(崩壊しつつあるので再構築しなければならないが)「共同体のつながりを守ること」「命を守ること」「自然とふるさとを破壊する原子力発電所をやめさせること」「もっとも伝統的な動き方をしている歩行者の安全を守ること」が私が取り組んでテーマであり、私は「保守主義」であるとしか考えられない。 2、生命は短中期的には「保守」的、 生命は確かに長期的には「進化」という変化を遂げていく。しかし、各個体の生命の維持は「動的平衡」「恒常性」という、動きつつある環境の中で、体の「保守」を守ることで保たれている。分子生物学は遺伝子の改変技術を一部含むのでその評価は分かれるが、しjかし、分子生物学自体が明らかにしたのは、遺伝子はなかなか変わらないという「保守性」である。 また、私が体をとらえる理論としてもっとも信頼をし、自らもその初歩である活元運動を実践している「野口整体」は、脊椎付近のゆがみに働きかけることにより、体がよき状態に自己復元できる力を取り戻すという考えであり、これも体の「保守性」を示しているように思われる。 生命には進化・突然変異という変化への要素も内包されているが、短中期的には「保守的」ともいえる。 3、政治的「保守」主義 これまで政治的「保守」主義という言葉に多くの人がいだくイメージは「(古き良き)日本の伝統への回帰」ということだろう。 「日本の伝統」の中には、一部「戦争」に利用されてしまい、かつてよくない使われ方をしたものもあるが、継承・発展すべき、あるいは現代的に修正をしながら継承すべきものも多い。したがって「保守」という言葉に多くの人はなんとなく好印象を持つ。 政治的「保守主義」が特性としてもっていた「男性優位」「家族主義」も、時代の変化の中で、自民党自身があいまいにしていった部分、まだ持っている部分両方あるが、少なくとも自民党自身がかつてのような「ゴリゴリの保守のおじさん」というイメージからは離れた人材も参加していることも、自民党支持への消極的回帰の要因の1つであると思う。 (選挙制度の問題で実際の支持率よりも圧倒的に多くの議席を自民党が得た問題は別個に問題にすべきとは思うが、それでも比較第1党であった事実は変わらない) しかし、自民党が本当の意味で保守であったかは疑問である。ふるさとと自然を破壊する原発という発電方式を推進してきたのははたして保守か?自然破壊の開発を許容してきたのがはたして保守か? 4、生物学的保守主義 真の意味の「保守」と、これまでの、政治的「保守」主義はイコールではない。しかし、一貫して「保守」という言葉を積極的に使ってきたのが、政治的「保守」主義の、自民党であったことから、(前政権の失敗があったとはいえ)、「保守」にかんとなくの安心感を持つ方々を含め少なからぬ人々が自民党を今回支持された理由の1つであると思う。 安倍新政権の動きがまだ本格的でないので、現時点での私のスタンスはまだ定まりきらないが、少なくともこれまでの自民党を見ていて、本当の意味での「保守」ではない要素が多々みられる。 そこで私は、自らの政治姿勢を「生物学的保守主義」と表現し、その観点から、私が関わりをもってきた様々なものを再び捉えなおしていきたい。 西洋スポーツの基本は靴を履いた競技である。これも体の基礎づくりにはなるが、「裸足」を基本とする武道においては、足の親指・小指のふんばりの感覚を維持しており、より「直立二足歩行」という人間の原点に帰る生物学的「保守」ではないかと勝手に思っている。 車をできるだけ使わず歩こう・そして歩行者の安全を考えた街・道づくりを目指すのも、「直立二足歩行」という保守主義への回帰ではないかと思う。 生命の持つ保守性・命をまもることをすべての最優先させる保守性、そして日本の伝統の中でよいものは継承していくなど、いろいろ考えながら50代の出発としたい。 |