↑雑魚寝でがんばる若者ボランティア
(私はホテルで宿泊しました)

↑集まったボランティアの多数の靴

↑みんなで「同じ釜の飯」をいただく

↑朝のミーティング
ボランティアは4グループに分かれて活動
1、海岸部のガレキ撤去
2、被災者の「足湯」をしてお話を聞きながら心と体をいやす
  (避難所)
3、子どもたちと遊ぶ(震災原発であまり遊べていない)
4、炊き出し(避難所の夕食)

私は1をさせていただくことになる。

↑センター前。これから車に分乗していわき市海岸部に向かう

↑1階がなくなる津波被害

↑海岸部津波被害

↑意外にも放射線量は少ない
0,1μSv/h。原発から北西側に風は行き、原発の南側のここ沿岸部では海からの風が吹くからか?


↑ガレキ撤去作業中の私

↑ガレキの撤去は単なるガレキ撤去ではない。ガレキの中に埋もれている「思い出」「大切なもの」を仕分けながらの作業である。
「ガレキ」と「大切なもの」との峻別作業といってもよい。
この音楽発表会のようなもしかしたら思い出かもしれない物も多数あるが、そこまで配慮していると、作業が進まない。
しかし、「個人の手紙」「写真」「アルバム」など明らかに大切なものは
持ち主に後でみて判断してもらうように
別の場所に仕分けながらガレキ撤去をする。

↑午前中のガレキ撤去作業終わり。昼休み皆で食事。

↑津波被害にあった豊間保育園。各クラスや園ホールも筒抜けで被害の状態がそのままになっているのが痛々しい。

↑午後3時、1軒のガレキ撤去(ガレキと大切なものの峻別作業)終了。一緒に作業したボランティア仲間(まん中が私)。
1軒でも丸3時間かかった。
 

5月5日(祝)朝4時「いわき駅前」初の高速バスで東京に向かう。(7時東京着)

バス車中から見た送電線。福島原発から関東に電気を送っていたものか?

 3日間の訪問を終えて、私自身、人生の方向を定めさせていただいたような
想いをいたしました。
 まず、訪問前「ボランティアがGWに集中し、現地は迷惑」という
報道もあったため、ご迷惑にならないかと
危惧していました。したがって、周到な連絡を事前にして訪問させていただきました。
 しかしながら、実際に行ってみると
「福島は原発由来の放射性物質の影響を危惧し、ボランティアが少ない
のではないか」ということを強く感じました。
 広野町・いわき市の海岸部のガレキの山を見た時、
まだまだボランティアの手は必要と感じました。

意外に放射線量が少ないいわき市を拠点に、
月1回程度の恒常的ボランティアができないか諸方面に
打診中です。(5月8日)



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