福島原発事故以来、過去の私の脱原発の取り組みの資料を整理していたら、1990年の年賀状として発信した文が見つかりました。年賀状サイズに小さな字で印刷したものです。 1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故を、東大農学部の学生の頃経験した私は、「原発や科学技術を無批判に推進することは間違っている。理科系の者だからこそ、原発も含む科学技術を批判していく必要がある」と感じ、以降20年その生き方をしてきました。 当時東大の理系学生で同様に考えた友達もいて、理学部化学科で錯体(キレ―ト化合物)の研究をしていた「錯ちゃん」は、あえて工学部原子力工学科に転科し、今も原子力業界の中で脱原発を訴える研究者に育っています。 あの頃の理系学生に生き方の転換のショックを与えたチェルノブイリの原発事故、それとおなじことが今回福島で繰り返されたことに複雑な想いをしています。 私の20代後半、その時の原点を思い出させる文章でした。ご参考にください。 「謹賀新年 「○○原発で冷却水漏れ事故」・・・新聞の片隅にのるこのような記事を見ても、内心「またか。でも大事故にならなかっただけよかった」などと思ってしまっていた私にとって、原発下請の被曝労働者の実態はショックでした。「科学の粋」と宣伝される原子力発電所が、年間5万人にも及ぶ膨大な労働者に法定の被曝許容線量すら無視させ、バケツと雑巾での濡れた冷却水ふき作業・アロンαでの接着などの手作業をさせることなしし動かないという事実。原発は、事故がなければよいのではなく、「平常」に動いているだけで、すでにヒロシマ・ナガサキを越えるのべ42万人の被曝者を生みだしてきたという事実。ここ台湾でもしかり。もうこれ以上の犠牲を出さないためには全ての原発を停止させるしかありません。 私もそろそろ原発(を生みだす構造)と生涯かけてでも闘う覚悟をきめなければなりません。 反原発写真家・樋口健二氏案内の台湾ツアーに参加して 昨年はありがとうございました。今年も宜しくお願いします。 1990年(チェルノブイリ5年)1月1日 朝倉幹晴」 ↓樋口健二氏と被曝労働者の今 原発下請被曝労働者の現状 |