【錯ビラ'93】
意見広告II
ねこの首に鈴をつけるのはだれ?

みんなで考えていきたいと思います。
小さい字でごめんなさい!
by 錯ちゃん

<本文ここから>
昨年の「反原発はいらない!」ビラには多くの方にお手紙を頂いたり紹介して頂いたりして、本当に有難うございました。予想外の反響に驚くと共に、原発に反対する人々の「力」を感じ、私達は決して一人一人ばらばらではないと勇気づけられるものでした。

そこで 又しても他人の言葉を並べるのも何なのですが

「脱原発」という思想はエネルギー大量消費型の社会の在り方を捉え返す事から必然的に「もう一つのライフスタイル」、エネルギー消費に頼らない豊かさの価値を提案する事になったと思います。

そこで私は(そんなに新しい事ではありませんが)
「もう一つの脱原発」の位置付けを提案したいのです。

「プルトニウムの人体への影響は結局人体実験しないと分からない。『ウラルの核惨事』でプルトニウムを浴びた何千、何万の人のデータが見たいものだ」と「夢見るような眼差し」で語っていた学者がいた。
そもそも何故「人体実験」して迄「研究」がしたいのだろうか。
プルトニウムは危険だから使わない、で済ませないで
「どのくらい」人が死ぬのかどうしても突き詰めようとするのは 結局は
「もっと」人を殺すためではないか?更にプルトニウムを使う事によって。
しかし本人は、自分が被曝するという事は考えた事もないのではないか。

ある原子力メーカーの人間が
「チェルノブイリの事故で、原発事故には国境はないという事が分かった。自分の国に原発がなくても隣の国で原発事故が起これば同じ、どこの国で誰が原発作ろうが関係ない、日本も日立も三菱もない」だからやるのだ、と言う。原子力産業のヤケクソの心中宣言ともとれるが
自分の所でやらなくてもどうせ他人のとばっちりが来るなら自分の所でやらなければ損だという事なのだ。つまり原発は「やったモン勝ち」なのだ。
その伝でアジアの諸国も死なばもろともに巻き込もうとしてるんだろうな。

あるいは他の意見
「原発に反対する人がちょっと節電なんかしているが、現に原発は存在して発電している。今更30%も節約したら経済活動が成り立たなくなる」
つまり原発が現にある以上、反対しても無駄、という正に「やったモン勝ち」問答無用の言い草である。
それで「民主主義」なんて言葉を平気で口にしたりしているけれど。

この「やったモン勝ち」の思想こそは
いくら女性が抗議してもなくならないセクハラ、車椅子が通れないと分かっていて設置される自動改札、など他の様々な問題にも共通する差別の思想なのである。

原発によって誰が差別されているのか。
金と引き換え或は民族や出自の差別によって被曝労働を強いられる労働者。
「経済力がない」とか「過疎」だとか「発展途上国」だとかで
放射能汚染を押し付けられた全ての土地、そこで苦しむ人々。
汚染食品の行方も気になる。

「核」にとって被曝が避けられない問題である以上、
被曝する人を作らねば、つまり被曝を一部に強いる差別構造がなければ
原発は成り立たない。
逆にその差別構造ゆえに、いくら「科学」「技術」が進歩しても
被曝はなくならない。
「応力腐食割れ」には、彼らの「財産」に関わるゆえ全力で取り組んだ科学者たちも、「作業被曝低減」については「本来やらなくてもいいような重大じゃない事だけど最近余裕が出て来たから始めた」程度の認識なのだ。

原発問題は差別問題なのだ。
原発を容認することは、エネルギーをふんだんに使い自分は「豊か」になる代わりに他人を踏み付けにする社会を容認する事に外ならない。

だから私は「反差別としての反原発」という思想を提案したい。
他人を犠牲にして自分だけが良い目を見る事を拒否し
それで多少不便になったとしてもそれはそれで受け入れる、という事で。

一部の原発推進の人々は「原発に反対する奴は『バカ』だ」と言う。
彼等は彼等の「原発=差別」の文脈でこう言うのだ。
これに対し、残念な事に一部の反原発の人が「推進派も被曝すればいい」「原発の近くには『奇形児』が沢山いる」などと言うのを聞いた事がある。
私にはこういった事を言う「反対派」と「推進派」の区別がつかないのだ。
原発を差別の思想と捉えるならば、同じ事を反対派がやっている限り原発は決してなくならないだろう。
原発を一刻も早くなくすために、原発と「違う発想」をもっともっとして行かなければ!

「原子力工学科」にいる私には「差別」の厳しい現実は見えて来ない。ここは「現場」であって「現場」ではないのだ。
「主婦の人が放射線検出器を持っているのを知っていますか。チェルノブイリの事故で一般の主婦の人達が食べ物の放射能を測るようになったんです。そういう人のためにもっと安くて性能の良い検出器が普及するといいですね。」と言った学者がいた。これは全くその人の「良心」から出た言葉であろう。
一体何故「一般の主婦」が放射線検出器を持たねばならなくなったと思っているのか。その責任を取って自分で放射能を測定しに行く訳でもなく
良くこんな事が言えたものだが
まかり間違えば「科学者の良心」などこんなものかも知れない。
(勿論原発に反対して放射能を測っている心強い科学者も大勢いらっしゃるのだが)
「原子力」に仮にも「科学(?)」なるアプローチで関わったうえで、どのように原発を支える差別構造を打破して行けるのか、
これが私の課題である。

がんばります、みんなとともに。