2014年1月18日(土)午前1時、明朝からのセンター試験と26年経た二葉の写真に思う(長文)

↓受験生たちのきらきら星ネット(原発被災で首都圏に避難された小中学生の学習サポート)最終日に一緒にとった写真。子どもたちやシスターと記念撮影。(受験生たちが、子どもたちに送り出されながら、自らの受験勉強に専念することになった日)(私は左に立っています)
   (2013年11月25日)



↓私がフィリピンに旅立ち、はじめてマニラで迎えた夜の写真(1987年11月25日)


★明朝の大学入試センター試験と26年を経た二葉の写真
(長文です。気が向いたらお読みください)
        2014年1月18日(土)午前0時すぎ 朝倉幹晴

明朝のセンター試験本番に向け、受験生はもう床についた時間だろう。もう、私としての生物分野でのサポートはやりきった。あとは受験生本人たちが、1年間の勉強の成果を発揮できるよう祈るだけである。
センター試験前の日々は毎年この気持ちの繰り返しで25年が過ぎた。しかしとりわけ、今年は、それに加え、私個人の歩みも重ねあわせて特別な想いを持っているのでそのことを書いてみたい。長い文章ですが、気が向いたらお読みください。
(これは2013年末に書こうと思ったことが忙しくて書けなかったものだが、この日に、今からの話に関わった受験生たちが明日勝負に臨むにあたって、彼ら彼女らが活躍できるように念じながら応援エールの意味もこめて、今、書きたい。)

★前史1〜1987年前半「チェルノブイリと飯田橋」
1987年前半、大学時代の後半、私は、チェルノイリ原発事故を契機として始まった理系学生の脱原発運動ネットワークに関わりながら、人生初めての中期的な塾講師バイトをしていた。その塾は「飯田橋」(富士見町の岩見ビル)にあり、本郷(今はなき東大向ヶ丘寮)から自転車で通っていた。個別指導の塾で、生徒たちもなついてくれ、やりがいを感じていた。ところが、その塾の経営が傾き、なんとかやりくりして運営していることは学生バイトにもわかったが、なんとか持ち直すことを期待しながら週3回通っていた。ところが、ある日、いつも通り自転車で向かうと、塾の扉は閉鎖され、入れなくなっていた。閉鎖された扉には「逃げるなバカヤロー」「これから受験本番なのにどうしてくれるんだ」などの書き込みがあった。いわゆる予告なしの「夜逃げ」である。私は「講師として残念です。私個人はいつでも皆さんをサポートしますので連絡ください」と書き置きをし、釈然としないままそこを去った。

★前史2〜1987年後半「上智大学→フィリピン」
 1986年度で実質卒論を済ませて、1987年は少しだけ単位を残して留年し、フィリピンを長期放浪すると決めていた。駒場の時に、「第三世界論」というゼミに参加し、「日本とアジアの関係が決して対等とは言えない。だからこそ、関係をよくしていくためにも民衆(NGO)レベルの交流が必要」と理論的には感じ続けてきた私であったが、実際にアジアに行ったことがなかったので、一度行ってみたかったし、それも短期ではなく中長期訪問を考えていた。(出発にあたって、一つ気がかりだったのが、飯田橋の塾の生徒たちを残して行けるのかということであったが、皮肉なことに「夜逃げ」によって、その危惧もなくなってしまった。)
当時、フィリピンは激動していた。1986年2月、首都マニラを中心とする都市中産階級が立ち上がりマルコス独裁を倒し、アキノ大統領を産んだ「2月革命」(黄色い革命)。しかし農村部での矛盾が解決されたわけではなく、ネグロス島(2013年台風被害のセブ島の隣町)では貧富の差から子どもの餓死が続き、カトリックが社会的な差別に対する運動の中心となる南米型の「解放の神学」のような動きがあり、反政府ゲリラ(新人民軍)は南部のミンダナオ中心に勢力を強めていた。
自由平等と社会的正義を求める様々な動きの生の姿に触れたいと思い、1987年11月25日、まずは上智大学関係のNGOルートで10日間のマニラのスラム訪問プロジェクトに参加し、その後1988年2月20日まで3か月間、「友達の友達」を次々に紹介していただき、渡り鳥のように、マニラ→ネグロス→ミンダナオと旅をした。
語ればきりがないが、ネグロス島にするある家族に1週間ステイさせていただき、信仰(カトリック)と社会運動が完全に統合されている姿を見た。
帰国後大学を卒業し、1989年〜、駿台予備校生物科講師として働くこととなり、「飯田橋での塾講師」の経験を、仕事として生かすこととなった。

★1995年〜2012年「船橋」
 その後、結婚し、船橋市に引っ越し、船橋市議にもさせていただき、10年務めさせていただくことになった。とりわけ、2011年は、1987年当時の脱原発運動の想いを思い起こしながら、脱原発運動、放射性物質調査などを船橋で行った。また原発事故で船橋に避難された中学生の高校入試サポートをした(2011・2012年度)。

★2013年「飯田橋での学習サポート」に合流
 2011年、福島原発事故で、被災避難家族は船橋だけでなく、東京にも避難していた。
支援団体「東京災害支援ネット」、そしてその学習・子どもサポート部門「きらきら星ネット」が、カトリックを中心とするボランティアと、生活相談、そして訴訟を担う弁護士を中心とするグループが共同し、立ち上げられ、学習サポートは飯田橋の修道院をお借りして続けられていた。私は2012年から「きらきら星ネット」と関わりはじめたが、2013年度からは、2012年度で船橋への避難中学生の高校入試対策が終了したこともあり、2013年度からは、飯田橋での学習サポート「きらきら星ネット」に毎週月曜夜参加するようになった。

★2013年「受験生たちが学習サポートに関わり始める」
6月、駿台予備学校市谷校舎(医学部受験生校舎)で、「きらきら星ネット」共同代表に学習サポート活動の話をしていただいた。それは、大学入学前に原発事故被害やボランティア活動のことを知ってほしいとの気持ちだった。「市谷と飯田橋は近いから1回ぐらい見学はどうか?」と呼びかけたところ、10名が参加し、うち6名は継続的にボランティアに関わることを申し出た。自分自身が受験生であるにも関わらず、毎週月曜日恒常的に、福島からの避難小中学生の学習サポートに関わるその気持ちの背景を聞いたところ、
「高校時代、ボランティア(カリタス・ジャパン)で釜石に行ったことで医師をめざすようになった」
「福島県出身なので、同じ福島出身の子のお役に立ちたかった」
「小児科医をめざしているので、子どもたちの役に立ちたい」
などボランティアにかける強い思いを聞いた。
彼ら彼女らは、秋になるころは、自らの勉強の進度と悩みつつも、「3人ずつの隔週2交代制」を採用したこともあり、11月25日の最後までボランティアを続けた。私は、自らも厳しい条件にありながら、ボランティアを続けたこの6人の受験生は、必ず心優しい医師になってくれると確信し、とりわけ応援したい。
(もちろん、たまたま条件があわずに参加しなかったけれど、同じような気持ちを持っている受験生もいます。だから、6人だけを応援するわけではなく、もちろん全受験生を応援しますが、ただ「同じ釜の飯を食った」に近い「同じボランティアを共有した」6人にはとりわけ思い入れが強いことはご容赦ください)

★「塾夜逃げ」により、一旦疎遠となった「飯田橋」と学習サポートという形で26年ぶりにご縁ができたのは人生の不思議に思い、運命を感じます。また私がフィリピンで見た「カトリック(宗教者)と社会運動の共同」の姿を25年経て飯田橋で見ることになることも不思議な運命を感じます。

26年を経た同じ日付の二葉の写真は、私が生涯忘れられない写真となりそうです。

きらきら星ネットを手伝った6人の受験生、そして全ての受験生が明朝からのセンター試験で全力を出せるように祈っています。がんばれ。

             2014年1月18日(土)午前0時すぎ 朝倉幹晴


▲戻る