歴史/概略

 長者山新羅神社(旧社格 県社)


右大臣  左大臣

右大臣  左大臣



御祭神 素佐鳴尊・新羅三郎源義光命
(すさのおのみこと・しんらさぶろうみなもとのよしみつのみこと)
江戸時代、延宝6年(西暦1678年)八戸南部2代目藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として長者山の山上に神社を創建、社号を三社堂または虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直轄の総鎮守である。
元禄7年(1694)三社堂を改築、更に文政10年(1827)8代藩主信真公が再改築して現社殿と同時に「桜の馬場」を開設、打毬の奉納も創設され、例祭日には「加賀美流附伝騎馬打毬」を今日まで奉納されている。
明治14年(1880)には、天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。

また、明治14年より「えんぶり」行列である当社相殿神稲荷大神の神輿渡御式が執行されてきた。 現行の2月17日になったのは、明治42年(1908)旧暦廃止に当たり、伊勢神宮の祈念祭の奉弊日に合わせた。
明治2年(1868)神社制度確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に長者山新羅神社と改称した。

 加賀美流附伝・八戸騎馬打毬の由来

八戸騎馬打毬は、八戸南部藩の遠祖新羅三郎源義光公4代孫の加賀美次郎遠光公から始まり、八戸南部藩に伝承された。
この騎馬打毬は、「加賀美流附伝八戸騎馬打毬」として、180年ほど前に8代藩主信直公の、八戸南部藩に伝わる御家流馬術の「加賀美流馬術」の中の騎射八道(流鏑馬、笠懸、犬追者、草鹿、八的、手拭など)の一種目として武芸奨励の目的で藩士に奨めた。
文政10年(1827)7月21日信直公は長者山新羅神社を大改築され、「桜の馬場」も開設された。その落成を祝って騎馬打毬が奉納された。
八戸騎馬打毬は、騎馬武者八人が紅白に分かれ、馬を巧みに操りながら毬杖で毬をすくい上げ、紅白の的に入れ競い合うもので、現在は「八戸・山形県豊烈神社・宮内庁」に保存されている。
一番古典的な打毬は、八戸(長者山新羅神社)と聞いている。
八戸騎馬打毬は、昭和46年八戸市の無形文化財の指定、八戸文化賞受賞。
昭和47年青森県無形文化財、青森県技芸の指定を受けている。

八戸騎馬打毬
新羅神社「桜の馬場」にて、三社大祭中日8月2日