岐阜での店長時代は華やかであった。営業実績がバックボーンであった事も有り、コクヨと共同制作したオリジナルのビジネスバックにその中に詰め込む資料の開発と使い方のビデオ、コスモラインと名付けた営業販促ツールといった具合に自身の営業活動が全社の物となっていった。ところが営業を外れて指導役として本社へ行ってから、人生が180度といって良いほど変換した。特に1993年に田鍋会長が亡くなられてからは反主流側となり居場所が無いほどであった。
そんな時、京都支店へ転勤したのであるが支店長の斬新な考えに本社で培った能力開発のスキルも乗じて、営業所の業績も社員の能力も大きく飛躍した。ここでも本部で何十枚も掛けて業務分析していた書類をたった2枚で把握出来るシートの開発や、今でこそ当たり前のEメールを利用しての社員との情報交換やパソコンを使っての間取・外観やエクステリアの提案などを当時既に始めていた。しかしこれも道半ばで左遷人事を受ける事になった。
事業所長からカスタマーズ社員へというのがその人事であった。しかもご丁寧に業者様と癒着してという酷評付であった。これまでも転勤による苦しい場面は幾度か経験した。営業への職種転向とか中部営業部では机が用意してなかった事もあった。しかし給料が約半分となり、倉庫の前に席で頭の後ろを人が往来するといった待遇もあり、かなり精神的に参っていった。ところがそんな時「どうや負けたらあかんで、いつかは呼び戻すから…」と破天荒な声で京都支店長が度々元気付けてくれた。不思議と落ち込んでもう辞めようかと思う時に電話があるのである。
その京都支店長が北陸営業本部へ異動となり、後を追う形で転勤出来た。水を得た魚の様に仕事が出来、北陸営業本部の社員も工事店様も徐々に元気を取り戻した様に思えた。業績も福井県がシェアNO.1となり、その中でも私の担当していた敦賀地区は3年連続で15%近いシェアを締めていた。そこでは北陸営業本部長の肝いりで有った協力会活動をバージョンアップし、積善会活動として展開した。これはNPO活動に近いもので“奉仕活動・地域発展・相互啓発”の3本を主軸にイベント展開していく物である。その考えが地域に浸透し、結果仕事に繋がっていった。冗談の様な話であるが、大和ハウスの支店長がアポイントを取ってそのやり方を聞きに来たほどである。
しかしここでも本部長の転勤人事と同時に異動の発令があった。またしても仕事の正義とか画期的なやり方は無視され、作られた酷評と呆れる証拠が丁稚揚げられていた。いつしか社員の成長とか業者様の期待は置き去りにされ、上司が自分の保身で部下を裏切る組織となっていた。もうここらが潮時であり、良いでしょうと自分に言い聞かせた時、またもや破天荒な声で「どうや、こっちは面白いで」と携帯が掛った。勿論この声の主は元北陸営業本部長の小川さんであった。多分この人とは深い縁で結ばれていると信じ、今では日本綜合企画グループとして生涯共にしていきたいと思う。
省エネ法の変遷は住環境に大きな影響を与えており、人が健やかに住まう為には、これに相応しい住まい方がいります。また、気候変動やメンテナンス不足などで悪影響に順応していく為、『健やか住まい方』を用意しています。これを住まい手が活用できる「健康ネット」の配信や指南者の資格取得Web学習もあります。